<サヴァイヴしてみせたTAKESHI>
結構堅い方だった僕の両親が、当時小学生の僕と一緒に『オレたちひょうきん族』を楽しんで観ていた事を覚えている。
それから約10年後、その両親が『ダウンタウンのごっつええ感じ』には嫌悪感を顕わした。
一方、たけしの番組が少々かったるくなった僕は、『ごっつ』『ガキの使いやあらへんで』等のダウンタウンの番組を自室で楽しんでいた。そしてそれは、たけしが映画『その男、凶暴につき』を監督した頃でもある。
いくら親しい者であっても、人は本質的に「他人とは相容れぬ異質な部分」を持っている。そこを探り合い肯定し合うのが、僕らの日々の生活だ。
互いに共有出来る部分を見つける事は意外と容易で、それはまた家族揃っての視聴が大勢を占める1980年代の「お笑い」の対象でもあった。
誰の目にも奇異に映る衣装を纏うという「分かり易さ」から、番組全体の気分を創出する<ビートたけしの笑い>は、まさにそこを掬いあげていた。
そして、たけし自身もその点に非常に自覚的であったことが、本書のトークから見てとることが出来る。
しかし、時はその様相を変えつつ、容赦なく過ぎていく−。
1990年代に入り、テレビが「ひとり一台の消費財」になるにつれて、人々の「生活の個室化」が進み、結果「お笑い」の表現者は僕ら一人々々と対峙しなければならなくなった。
それは人の持つ「異質な部分」に訴える事であり、受容者には時としてシュールにも映る。
たけしに代わって1990年代を制した<松本人志の笑い>の芯は、まさにそこにあり、『松風』『寸止め海峡』等の個人作業においてそれは一層際立ってくる。
一方でたけしは監督「北野武」となった。
『ソナチネ』『Kids Return』等の快作から判断すると、個々人に感情的反芻を自発的に促す性質を持つ「映画」をツールとした事は、正解であったと言えよう。
コメディアン<ビートたけし>は人間<北野武>として、1990年代を生き抜いたのだ。
これはある意味、本能的な変身であったと言えよう。この書を見る限り、武はこの変身には無自覚だ。
<北野武>は時代性の変化に伴い、コミュニケーションツールを変え、一度肯定した「時代」のその先をも、いったんは肯定してみせた。
一方の<松本人志>は、その様々な発言から分かるように、まさに現在「自身」を思いきり肯定しているところである。
そして松本にとっての試金石は、21世紀を迎え、再び揺らぐその時代性を肯定出来るかであり、それは同時に僕らにとっての課題でもある。
願わくは、このような書を連発することにより、<北野武>自身が自家撞着に陥らないことを。

〔2001-01-26/
s@chi〕